chilican's diary

読んだ本や聞いた音楽の話をします。

高橋ブランカ『クリミア発女性専用寝台列車』

 高橋ブランカ『クリミア発女性専用寝台列車プラツ・カルト』(2017、未知谷)を読みました。高橋の高の字は「はしごだか」だけれど、ぼくの環境ではうまく表示されたり文字化けしたりしてしまうので、広く使われている漢字で書きます。

www.michitani.com


 ブランカさんは旧ユーゴスラヴィア生まれで東京在住、セルビア語とロシア語と日本語で書く作家です。『クリミア発女性専用寝台列車』は日本語での二冊目の小説で、短編が6つ入っている。著者略歴や『東京まで、セルビア』のあとがきを読むと自作を翻訳もする。ナボコフみたいだな、それとも多言語で書く作家にとっては自作の翻訳というのは当たり前の営みなのだろうか?セルビア語とロシア語もできたらそれぞれの翻訳も読んで、3つの言葉の世界を行ったり来たりして、多面的に楽しめるだろうが、残念ながらぼくがまがりなりにも本を読める言葉は日本語と英語しかない。

 未知谷のツイッターやウェブサイトでこの本のことを知って、首筋がぞくぞくして、指先が熱くなった。おもしろい本を探し当てる直感が働いている。何としても読まなければならない!そうはいっても、特に去年は家族のことでいろいろあって、なかなか本屋さんに足を運べなかった。未知谷の本は黙っていても山ほど新刊コーナーに積まれて、3週間もたてばトコロテンみたいにそこから押し出されてしまう類の本ではない。自ら求めなくては手に入らないのだ!ちょっと大げさに言いました。よく行く本屋さんは、ぼくが注文したら『亡命ロシア料理』を置くようになったし、だいたいの本は3日くらいで届けてくれる。できるだけ地元の本屋さんで買いたいから、そこに注文するんだけど、注文した本は取りに行かなくてはならず、いつ届くかは本屋さんとお天気次第で、いつもならそれが待つ喜びになるのだけれど、病と葬儀に追い立てられる日々では、ふらふらと書店にも行けやしない。

 『クリミア発女性専用寝台列車』をやっと手に入れたのも、母がケガして入院しているときでした。家事の負担が一気に増えて、自分の病気と母の用事と、毎日のご飯の支度で、忙しすぎる日々になりました。本書の冒頭を飾る「ピカソで夕食を」の主人公ドリナの「慢性的にこれもあれも、、、、、、やる」(p.9)暮らしがわが暮らしにもなったから、「とってもよくわかる!まったく男というものはみなぼうやたちで、誰かいないとまともにご飯も食べられない!」と、一人暮らしをやめたらまたぼうやに戻ってしまった男は、ぼうやではいられなくなった途端、自分だけはしっかりやっていると思って、ドリナの忙しさとツイてなさにうなずきながら、大きく笑いました。しょせんぼうやはぼうやで、せいぜい自転車の補助輪が取れた程度の「しっかり」なのでしょうが……。
 「ピカソで夕食を」は夫と息子、二人の「大きな男と小さな男」(P.26)と東京で暮らす通訳、翻訳者ドリナの一日を描いた小説。
 バザーで手に入れてしまった呪いのバッグを厄介払いし、家族の胃袋を満たし、夜には仕事でテレビ局に向かうドリナの一日は忙しすぎる!
 日本人の父とセルビア人の母の間に生まれ、日本語とセルビア語とロシア語と英語を使うドリナの姿は、前述したようにセルビア語とロシア語と日本語で書く著者自身を連想させる。もっとも、著者の人生や生活は反映されていそうだけれど、自伝的小説ではないと思う。セルビア語に訳しにくい日本語がセルビア語の中に混ざる母娘の会話は言語接触やクレオール言語の発生といっていいが、多言語を使って暮らしている人々の会話を、一つの言語だけで済んでしまうぼくも横で聞いているようでおもしろい。読んでいる間中くすくす笑うし、気づくと口元がにんまりしてしまう。題名は『ティファニーで朝食を』をもじったものだが、ドリナの思考が彼女の中の画面に字幕で映ったり、もしこうだったらという想像が監督、脚本、主演の映画になっているのが特徴的だ。読者は小説で描かれるドリナをそれぞれの中の画面に想像し、さらにドリナの中の画面に映る映画を思い描く。多重構造で思い描くこと自体が楽しい。

 高橋ブランカさんの小説は、鮮やかな色彩感覚、食べ物をおいしそうに描くのがいいし、様々な文学や、絵画や映画を例示して描写するのも魅力的だ。冗談やユーモアたっぷりのことばづかいは耳や目においしい。今回は「ピカソで夕食を」について書いたが、表題作を読んで、ミハイル・ブルガーコフをまた読みたくなり、今年復刊された『劇場』も読んだ。これもおもしろい小説だった。すばらしい文学作品はそれ自体の魅力とともに、新たな出会いの扉を開けてくれる。

 

クリミア発女性専用寝台列車

クリミア発女性専用寝台列車