chilican's diary

読んだ本や聞いた音楽の話をします。

ぼくのカラヤン、クレンペラー体験

宮下誠カラヤンがクラシックを殺した』感想文の続きです。
最初の記事はこれ
先の記事で全体を通じての感想を書きました。ここでは、ぼくのカラヤンおよびクレンペラー体験をかきます。

ぼくはそれほど多くカラヤンを聴いていない。

幼いころからうちにあった、さほど多くはない母のカセットやCDのなかには(若いころはレコードもあったんだけど、災害にあって失ったそうだ)カラヤンはなかったし、ぼくが自分で買い求めたのは、ベルリン・フィルとのバルトークが一枚だけ(「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」のカップリングCD)。
管弦楽のための協奏曲」については、ピアノコンチェルトや弦楽四重奏ほどとんがってないな、でもこの曲はこの曲できれいだ。「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」はチェレスタのきらきらがきれいだし、弦楽器も流麗だ。そんな平凡な感想しか持てませんでした。バルトークはほかの曲も聴いてみるようになったんだけど、カラヤンはそれっきり。

それなりに楽しんだけど、ほかと比べると、カラヤンバルトークはがしがし来るリズムの迫力がなんだか足りない気がするんだよね。きれいすぎる。

図書館でほかのカラヤンの演奏も聞いたけど、チャイコフスキーの三大バレエをまとめて聞けるディスク以外は自分で買おうとは思いませんでした。しかもまだかっていない。

だから、カラヤンはそれほど多く、どころかぜんぜん聞いていない。

カラヤンがクラシックを殺した』において、カラヤンと対比されている二人の指揮者のうち、ケーゲルは聞いたことがなく、クレンペラーは母のコレクションに1966年のマーラー大地の歌』があるだけ。とはいえ、ぼくにとって「大地の歌」と言えばこの演奏ということになっている。それどころかマーラーに対する印象もこのディスクによるところがおおきい。
大地の歌」のみならず、マーラー自体が恐ろしい。
嫌いならそれっきり聴かずに通り過ぎるだけだが、恐ろしいのに聞いてしまう。
カスタマーレビューや名盤、名曲紹介で「大地の歌」の項を読んで、その美しさをたたえる文章に突き当たるたびに、違和感を覚える。「大地の歌」が美しくないと思っているわけではないけど、まず、なんだかよくわからないがこちらを圧倒する何ものかの前ですくんでしまう感覚が、ぼくにとっての「大地の歌」だからだ。これが宮下氏のいう、クレンペラーの音楽が持つ「世界苦」なのだろうか?

ぼくの経験があまりに限られるせいで、『カラヤンがクラシックを殺した』を個別の演奏と照らし合わせて十分に読むことは出来ないのが残念だ。交響曲よりも室内楽ピアノ曲を中心にクラシック音楽を聞いてきたからなあ。