chilican's diary

読んだ本や聞いた音楽の話をします。

ポケットにはわくわくするものがいっぱい~北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』

  北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(2019, 書肆侃侃房)を読みました。

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

  フェミニズムウェブマガジンWezzyに連載されている同名のエッセイ(https://wezz-y.com/archives/category/column/ssaen/)を中心に編まれた文芸批評集だ。ぼくはこの連載が毎月楽しみで、始まったころから本になってまとまって読めたらいいなあと思っていたので、書籍化がとてもうれしい。

 ぼくは米文学を学んだので、フェミニズム批評のイロハのイ、くらいは前から知っていたんだけども、その観点で読んだことのなかったものを以前読んだときにはどう読んでいたかなあ、何を見過ごしていたかなあ、と考える。それがまた楽しい。この本で取り上げられている小説や戯曲や映画では、田舎住まいでお金がなくて、体に障害があってなかなか出歩けないもので、演劇が一番接する機会が少ないんだけど、著者の専門であるシェイクスピアは好きな戯曲も多く、しょっちゅう読むし、クリスティやウルフ、ディストピアSFの古典など、本書で取り上げられた文芸作品は読んだり見たりした作品が多かった。したがって、本書を読む過程で、かつての自分のものの見方をいまの自分が批判的にとらえなおす機会がとても多くなった。ぼくは異性愛男性なので、ジェンダーの面から見てもフェミニズム批評はふだん見過ごしていることを考え直して振る舞いやかかわり方をなおすまたとない方法論であり、ものの見方である。

 著者は批評家の仕事を探偵になぞらえている。それにならって『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』の感想をこのブログで書いたときは(サエロック・ホームズの冒険~北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』 - chilican's diary)ホームズをもじって記事名を付けましたが、著者はまさしく名探偵である。ブログのアイコンになっている緑のクマのエリンちゃんはもこもこふわふわだけど、ミス・マープルのように鋭く対象を観察しているのですね。つまり、ミス・クマープル……。

……さて、かつての文学徒であり探偵見習い、おまけにだじゃれ好きのぼくはぜんぜん名探偵には及ばないので、かつて読んだ本でも見過ごしていたことがたくさんある。ディストピアSFが内在していた女性軽視のものの語り方なんかは、物足りないとは思いながら、女性蔑視に焦点を当てることなくスルーして読んでいた。たとえば、ジョージ・オーウェルの『1984年』のジュリアは全体主義社会に服従させられる個人を描写するのに、恋愛のような行動や、人間相互の信頼のもろさを描くにはどうしても必要なキャラクターなのだけど、読んでいてこのジュリアという人はこういう人である、という形ではどうも心に残りにくい。人物の描写が表向きは模範的エリートでありながら、抵抗運動をしていて主人公と恋仲になる、という役割にとどまっている。本書では「女性描写が後退」(p.217)していると指摘されているんだけど、そのとおりですよね。『1984年』を読んでいて印象的なのは支配のシステムや二重思考といった概念で、出てくるキャラクターは皮肉なことに全体の部品のような印象のほうが強い。

 突然ぼく自身について書くけれど、ぼくはネット用語でいうところの「キモくて金のないおっさん」である。生まれた時から体に麻痺があって動作にはまるで機敏なところはないし、チビで見目麗しくもなんともない。お金はないし、子供のころから流行りものには乗ろうとしないし、受験を数年ごとにこなさないといけなかった思春期はそうしたイベントで「五体満足なだけの奴らには勉強では勝つくらいでなければならない。周りにいるのは友達か、でなければ競争相手だ」と思っていたので、定期的につんけんして、いまにしておもえば鼻持ちならない態度をとっていたと思う。さらに恋愛はきちんとしたお付き合いの順序と作法があるもので、自活できてない子供がするものではないとも思っていた。友達と恋愛の相手は別なのだとも思っていた。当然だがそういう態度をとっていると、恋愛とは無縁な大人に成長する。それなのに大学に行ったら、急に「彼女くらいいないの。なんで?もしかして……」などと言われなくてはならないのか。ふたつだけましだったのは金銭でセックスを買うのもいけないと思っていたので性産業には寄り付かなかったことと、友人関係の中から、性的な関係を持つ場合もある、というのがどうもよくわからなかったので、友達になった女性に対して恋愛や性的関係を求めることもなく、トラブルを生むこともなかったことだ。ネット上の「キモくて金のないおっさん」語りにはたいてい自己卑下と自分たちを選ばない女性に対する恨みつらみがセットになっているけど、そもそもさ、恋愛もセックスも介在しない人との付き合い方ってごく当たり前にあるのに、人間関係のうち性的なものがないことを強調するのはほかの人間関係はうまくいっていることとか、少なくとも害は生んでいないことを軽視している。

 批評手法としてのフェミニズム批評に関する知識はなかなか実生活に反映できなかったが、この本になった連載や、著者が紹介していたフェミニズムの本やセクシュアリティーに関しての本を読んでいくうちに、性行動に関するぼくの考えはだいたい次のようなものになった。多くの人間は性交する機能と欲求を持っているが、機能させなくてはならないものではないし、欲求が満たされないことは当然ある。性交は合意に基づいたものでなくてはならないし、個人的な道徳観からセックスを売り買いすべきではないとも思うし、経済的必要性から性産業を選ぶしかない人々の選択を自発的とか自由意思に基づいたものとみなして買うのは奴隷的搾取と同じことである。あらゆるヒトがつがいをあてがわれて少子化を防ぎ、子供を増やさないと社会が維持できないのに繁殖しない個体はただ乗りだ、ずるいというのもおかしい。

 歴史的にも男性には性交渉の相手があてがわれるのが望ましいと考える社会はそもそも自分のような障害者を人間扱いしてこなかった社会であり、そういう社会を是認して「あいつはびっこだけどほかの障害者と違ってがんばってる」、輝く障害者になりたいか?そんなのは願い下げなのだ。

 ぼくの自分語りは面白くないけれども、フェミニズム批評を通して男らしさ女らしさとか社会貢献といった通念を疑ってみることはとても有益である。ぼくは文芸や芸術は人間にとってとても重要で,ヒトを人間足らしめているものだと考えているけれども、日々の楽しみをただの娯楽以上のものに変える楽しみ方が批評なのだ。この本はただ本を読んだり映画を見たりするだけじゃもったいないよ!こんなことが隠れているのさ、と教えてくれる。読書好き、映画好き、舞台好きに、もっと欲張りな楽しみ方を教えてくれる本だ。ひょっとしたら劣等感や呪いが解けたりもするかもよ。