chilican's diary

読んだ本や聞いた音楽の話をします。

ロマン・カチャーノフ『こねこのミーシャ』

 先日の『ミトン』に引き続いて、ロマン・カチャーノフ監督の人形アニメーション『こねこのミーシャ』(1963、ソ連)の感想です。

 

chilican.hatenablog.com

 黒い子猫(日本語版ではミーシャと名付けられた)は都会の古い木造住宅に住んでいたが、ある日突然おうちは壊され、飼い主一家にも置いてけぼりにされてしまう。子猫はお家を壊したブルドーザーに泣きながら理由を尋ね、窮状を訴える。ブルドーザーが言うには、古くて狭い住宅は壊され、そこには新たに、立派で住みやすい、大きなアパートが作られるのだ。一人ぼっちの子猫も、きっと新しいアパートで住むところを見つけられるはずだ。子猫は同情してくれたブルドーザーの運転席で寝泊まりして、熱心に働く建設機械たちの仕事を見ながら建設が終わるまで待つことになった。
 鉄筋コンクリートの建物が出来上がるがいなや、やってきたのはネズミたち。子猫はネズミを追い払い、次にやってきた小鳥たちと知り合いになる。子猫に良くしてくれた建設機械たちは、きちんといとまごいをする間もなく、次の建設現場に行ってしまった。ようやく引っ越してきた人間たち。子猫は新しく一緒に暮らせる家を探すが、新しい、一部屋に一家族だけが住める高層住宅では、人間の顔さえ拝むことができない。途方に暮れる子猫。子猫には暖かいおうちがどうしてもいるのだ。すると、窓の外から小鳥たちが、子猫にぴったりの部屋を教えてくれた。その家の女の子が、廊下の子猫を見つけた。「かわいいこねこ、こっちへおいで!」子猫には新しい飼い主とおうちができました。めでたしめでたし。

 野良で暮らすこともおぼつかない子猫が、高層アパート建設で住む場所を失い、新たな住処を見つけるまでを描く。ユーリー・ノルシュテイン『話の話』(1979)でも出てくる木造共同住宅から、鉄筋アパートへの都市住宅政策の経過が描かれている。この映画では、実直な機械たちが新建設賛歌を歌いながら新しい街を作る。一見素晴らしい時代が来たことが描かれているのだが、住宅そのものが立派になったことはいいとしても、子猫が住む家と飼い主を失ってしまったのは、そもそもその建設のせいだし、木造住宅の時代は戸口で「にゃあ」と鳴けばエサがもらえ、飼ってくれる家が見つかっただろうに、新しい高層団地では、人間の前に顔を出すことすら難しい。
 子猫が体験する締め出しからは、多くの人が新しく、便利な暮らしを得られた一方で、懐かしい生活や人間関係を失った人々がいたことと、よりプライバシーが守られる住環境で、人付き合いの様相も住み方につれて変わっていくことがわかる。『ミトン』もそうだったが、都市の人々がもっぱらかわいがるために動物を飼うことが、どちらも大人は必ずしも犬猫を歓迎しない一方、子供が小動物との暮らしを望むことで描かれているようにも見える。カチャーノフは新しさ、便利さを手放しで賞賛はしないが、新しい都市生活に絶望しているわけでもない。子猫にはあたたかいおうちが見つかるのだから。
 

 『チェブラーシカ』シリーズでは友達やだれか困っている人のために、見返しを期待したりもせずに何かをしてあげる、あたたかさが描かれる。チェブラーシカ世界では、社会の問題は解消されないが、密猟者や環境汚染の実行者にはそれなりの罰が当たる。『こねこのミーシャ』はオレンジとみどりいろのすてきな世界というわけではない。建設機械たちはただただいいひとたちなのだけれど、人間は近い人以外にはなかなか目がいかない、ごく当たり前の暮らしを送っているし、動物たちの間にも少なからず緊張関係がある。小鳥は猫に危害を加えられないか警戒するし、いっぽう子猫も当面は何もしないが、暮らしが落ち着いたり、大きくなったら小鳥にちょっかいをかけそうな様子だ。命あるものはみな、生きるために自分本位になるものなのだと描かれている分、チェブラーシカの世界よりもちょっぴり苦いかもしれない。