chilican's diary

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村上春樹『1Q84』とその受容に内在するカルト宗教性

村上春樹1Q84』は以前も書いたように、カルト宗教、あるいは、思想のドグマ性をめぐる小説になっている。
これまでの村上作品と比較すれば、より具体的な形で、コミューンを作り上げる類の新興宗教団体が描かれているし、一見するとカルトバスター小説のように見えるが、そうではない。
いかにカルトに取り込まれやすいか、また、一度カルト的な思想を含む形で作り上げられた人間の生活様式や思考のパターンが、宗教団体から距離をおいても、カルト的なものを含んで存在し続けるか。
この小説の主題のひとつはそこにある。

主人公の女性は教義のうちに終末思想と選民思想を含んで、戸別訪問を通して布教する新興宗教信者の両親のもとに育ちながら、自らの意志でその団体とのかかわりを絶って暮らしている。彼女は女性を虐待する男たちを専門に暗殺するという副業についており、少女をレイプする儀式を行う新興宗教団体の教祖を暗殺する使命を帯びている。この暗殺業に関しては、司法は犯罪被害者や遺族の応報感情にこたえるべきか否か、そこから発展して、私的制裁に関しての問題を含んでいるとおもうのだが、今日のテーマからは外れるので、問題があることだけを記しておく。

ターゲットである教祖は暗殺者に、自分は人知を超えた存在の意志、力を行使する代理者に過ぎないことを告げ、また暗殺することで代理者であるがゆえにもたらされる苦痛から解放してほしいと頼み、奇妙な予言、あるいは交換条件を告げる。超越した存在は教祖を守るために、女主人公の大切な人々を奪って警告する。彼女自身も殺されることになる。だが、ここで教祖を殺すならば、女主人公の想い人が殺されることだけは、教祖の持つ力で防いであげよう、というのである。

相手には伝わらないが、自分が相手を守ったという認識、満足感、使命感と引き換えに自らの命を捨てよう、という自己犠牲が、性愛を伴わない積年の愛に直結するという構図は、ヨハネ福音書「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない」を連想させ、また豊富な性行為描写と対比して「純愛」を提示しているかのように見えるが、本当にそうだろうか?

まず、女主人公はなぜこのような予言をごくごくわずかな間で信じてしまうのだろうか。
そもそもこの小説の舞台設定として、女主人公が、ほとんど同じに見えるがそれまでとは異なった世界に入り込んでしまったのだという確信を抱き、どうやったら元の世界に戻れるのか(戻れないかもしれない)という不安を抱えていること、そして選民思想、終末思想を含んだ宗教の影響下に育ち、小説内の現在においても、その宗教の影響下に、物質的豊かさを遠ざけて生活しているという人物造形の二つが大きいと思う。
こうした状況で、あなたは元の世界に戻れないが、自己犠牲によって大切な他者を守ることができる、という教祖の言葉は女主人公にとってまさしく啓示となったわけだ。

そして予想されるとおりに暗殺は行われるわけだが、暗殺者であることを見破られてから、奇妙な合意をへて実現するまでの様子はまるでカルト宗教への入信過程の様に見える。それも一瞬のうちの転向であり、説得力もあまりないし、主人公の内在的論理はかつて実践的に身につけられたカルトの教義でしかないように見える。。

そこから自死に至るまでの女主人公はまさに孤独なヒロイン、または殉教者のようである。

ここで村上春樹の主要な著作である『アンダーグラウンド』とその続編を思い出そう。
村上は両作のあとがきの中で、オウム真理教の教義が持つジャンクな物語と、職業小説家によるフィクションの間の類似性について語っているのだが、ここまでべたべたな形で小説になるとは思っていなかった。

主人公にカルトへののめり込みを経験させ、その過程も描写して、読者にも疑似体験させようという狙いがあるなら、非常に巧妙に作られた物語だとは思う。
だが、mixi2chの書き込みを見ると、この物語の「純愛」や主人公たちの間の「想いの強さ」出会ったりに素直に感動していたり、女主人公に魅力を感じたりして読んだ人たちが相当数いるようだ(2chには批判もかなりのっている)。
批判的に読むならともかく(ここで言う批判は「否定」ではないぞ)、そのまま受容すると、まるまるカルトになるんじゃないかな、この小説。第一、『ノルウェイの森からして、純愛小説なんてとんでもない。あれは人を傷つけることに無自覚な男が、周りの人間を傷つけた挙句独りぼっちになる話だ。が、あれはなんだかとても「ピュアな」ものであるかのように(少なくともネット上では)書いている人たちがいる。そのような「純愛」に過剰に、あまりに単純に感応する読者がいる可能性をわからずに書く村上春樹ではなかろう。

たぶんまだ続くだろうという見通しのもとにこの文章を書いているわけだが、このままおわるのでは、カルトを批判しているように見えてカルトによくにた、閉じられた信仰を「カッコ良く」見せているだけの作品だ。