chilican's diary

読んだ本や聞いた音楽の話をします。

宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』

中古CDかって、何も表示がなかったのにCDだけレンタル落ちで、しかも傷だらけで読めなかったりすると、腹たつよね。

……読めなかったりしました。
二度とあの店いかねー凸(゚Д゚#)

宮下誠カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)を買いました。
宮下氏のブログはこちら

著者の専門は西洋絵画ですが、この新書では2冊目の音楽本。『20世紀音楽』はドイツ圏中心なのに、シュトックハウゼンが異端の変人扱いで、ミニマルやペルトとか、あるいは日本の作曲家の分量が極端に少ない、と言う偏向振りが腹立たしくも(要するに、ぼくの好みの作曲家があんまり載ってなかったってだけ)、よく知らないところについて知ることが出来たし、岩波の『音楽の基礎』みたいな基本のき、と呼べる古典は別として数少ない読んでよかった音楽系新書でありました。

最近の新書はつかみが派手と言うか、かなり扇情的なタイトルばっかりになってるんですが、これもすごいタイトルですね。カラヤンのメモリアル・イヤーなので去年あたりからずいぶんたくさん書籍やテレビでカラヤンの名前を見かけますが、これはゴシップやファンの信仰告白、あるいはトリビア本ではなく、カラヤンを題材にした聴衆論、あるいは芸術の受容についての本になっています。

カラヤンを象徴として、またカラヤン自身が積極的に関与して作り上げてきた20世紀後半の音楽、ひいては芸術全般、さらにいうと時代精神についての批判が展開されている。

ベンヤミンのいう、複製芸術の広がりによって、芸術からアウラが消失する問題と、それからわれわれ自身が普段とっている、世の中で起きているけれども、身の回りからは遠い出来事(つまり新聞やテレビやネットで知るさまざまな出来事)への、どこか他人事のような態度が、カラヤンが象徴する今のクラシック音楽の生産と消費のあり方に端的に表れている。

ただし、最大のポイントは現代社会のはらむ問題を生み出した責任は特定の芸術家にのみ帰せられるものではなく、芸術の受け手であるわれわれ大衆との共犯関係こそ、それらを生み出した主体である、というところ。

その主体を分析する際に社会学の方法ではなく、「カラヤンの音楽を精神史の枠組みで捉え」(P.44)、それを批判的に読み解くのが本書の目的である。その方法をとることで、現代の芸術の捉え方、社会のはらむ問題点を明らかにすることができ、解決への光明を見出せる、と言う内容でした。

一度通読して、このように理解した。刺激的な論考であったし、うなづけるところも多かった。音楽に心地よさのみを求めて、その快感に安穏としていてはいけない、という意見にはうなづきつつ、自らもその落とし穴に落ちていないか?と振り返らずを得ない。
だけれども、ぼくは肝心のカラヤンの演奏をあまり聴いていないのです。だから具体的な例についてあまりよくわからない。

と、いうところで、次のエントリーではぼくの個人的なカラヤンクレンペラー体験について書きたいと思います。